「#1 澤口 誠 引退」
「本当にありがとうございます。
でも自分の中では、めいいっぱいやった気持ちもあるのでそろそろいいかなって、思います・・・」マコからの電話はリリースの2週間ほど前でした。
まだ25歳。まだまだ伸びしろのある才能あふれるプレイヤーなのに。
本人がそんな気持ちになってしまった・・・させてしまった・・・
NBAでは珍しくなくなりましたが、
昔で言うと、ケビン ガーネット、コービー ブライアント。
国内ではマコの先輩でもある、川村卓也選手が有名だと思いますが、まだ多くの選手が成し遂げていない高校卒業してからのプロへのチャレンジに踏み切った澤口 誠。
きっと「やんちゃ」とか「聞かなそう」というイメージを持つ関係者も多かったと思いますが、実はすごい恥ずかしがりやで、それを隠すために、はっちゃけてみたりが多かったのですが。
実は地元のために涙を流す、ふるさとへの熱い気持ちを持ったプレイヤーでした。
最初に入団した秋田では初年度からオールスターに選ばれ、最高のキャリアをスタート。
しかし翌年に東日本大震災があり、大きな被害を受けた釜石市出身のマコは被災した地元岩手でのプレイを希望し、ビッグブルズの一員となりました。
初年度の岩手は震災の影響と初年度の立ち上げの苦しさもあり開幕5連敗。
シーズン途中のヘッドコーチ更迭で、ACの冨山さん(現アルバルクAC)が必死にチームの立て直しを図ってくれていました。
今だから話せますが、当時はとてもプロと呼べる練習環境に遠く、一般利用の方と同じ2時間枠で公共体育館を使用し、練習していたので、リングを設営しテーピングを巻いて、寒い体育館で冷えた身体を温めアップを終えると練習時間は残り45分間というような高校生よりも練習ができていない状態でした。
一番ビックリしたのは、チームにデジタイマーが無く、体育館の壁かけの大時計を試合時間としてチラチラ見ながら、冨山ACの腕時計のGショックでショットクロックをコーチ自身が声で知らせながら練習していた姿を見て、悲しくなったのを覚えています。
自分の最初の仕事は、大阪エベッサでプレイしたのち、母校の盛岡南高校でHCを務める、マコの高校の先輩にあたる斉藤HCにお願いして、使っていない古いデジタイマーを期間限定で貸してもらうお願いに走った事でした。
その後も斉藤HCには練習会場確保が出来ないチーム事情とマコや後輩たちを心配してくださり、部活の合間時間に体育館を貸していただいたり、今でも感謝しています。
2012年3月11日に北上市で行われた「東日本大震災追悼・復興支援ゲーム」
大阪エベッサ戦。
試合開始前にキャプテンのヤマと、ショーン マロイにお願いして、寒い外で開場を待つブースターに向けて「復興支援ゲームのご支援と特別な試合への応援のお願い」の挨拶をしてもらった。
試合前に行われた黙祷。
試合が始まる前からバスケの試合を超えた感じたことのないチームへの期待でアリーナは特別な雰囲気だったのを覚えています。
冨山コーチが特別な試合への素晴らしい準備のおかげでマコを中心にチームは素晴らしいゲームを披露。
試合終了間際まで勝負の分からない試合でしたが、最後の最後で強豪大阪から見事に勝ち切ると、「特別な日の一勝」にアリーナ中が涙を流していました。
きっと会場に居た方は覚えていると思いますが、嗚咽で会場が埋め尽くされていました。
マコも試合終了後に人目をはばからず涙を流し、釜石から来て下さった方や、ご家族に囲まれるとブースターと一緒にわんわんと泣いていました。
きっとマコは復興のために岩手を盛り上げたいと思っていたけれどなかなか結果が出せず、3月11日という特別な日に勝てたことで
感情があふれ出たんだと思います。
桶谷HCが来てくれた次のシーズンは
開幕から5連勝とチームは生まれ変わりました。
「ビッグブルズを復興の旗印に」という心意気が少しずつ形になりだした12月のある日。
チームオフィスに1通の手紙が届きました。
手紙はマコの地元の釜石市、釜石東中のバスケ部1年生の男の子からチームに宛てた内容で「津波で校舎と体育館が流されてしまい、
仮設の校舎と体育館は小学校と共同利用のため大好きなバスケを練習できる環境がなく、チームメイトも悲しんでいる。」
お母様からの手紙も添えられ「なかには被災した生徒も多く、なかなか思い切ってバスケができない子供たちを元気づけてもらえませんか」
という内容の手紙でした。
たしか会社スタッフが涙をこらえ手紙を私に持ってきてくれたはず。
すぐにチームの練習会場へ走りました。
レギュラーシーズンの真っ只中で、釜石へ行くには1日練習を休む必要がありましたので、桶谷HCにサプライズ訪問の計画を打診すると一言。
「これは行くしかないやろ。」
カッコよく全員ですぐにでも駆け付けたかったのですがチームが釜石へ移動するためのバスをチャーターする費用が会社にはありませんでした。そこでチームを応援して下さっている「ふるさと交通」さんに事情を話すと「お金のことは後でいいから、早く釜石へ行きましょう」と一肌脱いでくださりました。
たしかチームウェアーをサプライしてくださっていた「チームファイブ」さんからも短い準備期間にもかかわらず、「バスケギアを子供達にプレゼントをしてくれ」と子供用練習着を段ボールで送って下さりました。
また子供達にはサプライズの訪問だったため、充分な告知期間もありませんでしたが、地元メディアの方達も男気できてくださり釜石東中の男の子の「勇気の手紙」は当時大きく報道して下さりました。
当日は釜石のヒーロー、澤口 誠が登場すると
子供たちは大盛り上がり。
一緒にバスケを楽しんだあと、クリスマスプレゼントを全員に渡し最期にマコから沿岸唯一の宮古市のホームゲームチケットを全員に手渡しました。
マコが「オレも釜石を胸に戦うので、みんなも一緒に頑張ろう。
沿岸の試合は”ぜったい”に負けないので試合に来てください!」とスピーチすると、
協力くださった釜石市役所の方々、学校関係者、保護者の方、チーム会社のスタッフも
マコの言葉と子供たちの表情を見て涙をこぼしていました。
実はこれが大漁旗が揺れるホーム「宮古不敗神話」の始まりです。
たまたま勝ってたから不敗神話になったんじゃなくてマコが釜石の子たちと
「沿岸では”ぜったい”に負けない」と
みんなと約束したから「宮古不敗神話」が始まったんです。
桶谷HCも沿岸の試合でチームへ求める要求度は別次元のものがありました。
強気なアタックが持ち味に見られがちと思いますが、実はチームを救う、ロングリバウンドや大切なポゼッションを呼び込むフロアや観客席までダイブするルーズボールへの執着心が魅力でした。
また勝負所でしっかり沈めてくれるフリースロー。
きっとバスケをはじめてからずっと勝負所を任されていて、ここぞという時はオレにやらせてくれというハートを持ち、
そこで仕事する事がマコのメンタリティーだったんだと思います。
正直なところ「まだ、25歳です。B1でやれるポテンシャルがあると思うので
1回見てみませんか。」とたくさんのクラブの方に声掛けしました。
かなり興味を持って下さったクラブの方もいました。
その答えを聞く前のマコの決断・・・
環境さえ変われば。
もっとやれるはず。
いろんな引退を反対する理由はありましたが、
高卒後からチャレンジし続けてきたマコなりの結論と、
ご家族とも話し合った結果の答えと聞き、
震災からの復興を胸に戦ってきたマコのいろんなシーンが思い出されました。
あの釜石東中だった男の子も、
復興支援試合で一緒に涙した釜石の方達も、
「宮古不敗神話」を一緒に築いてきてくれたブースターのみんなも、
マコ引退の知らせを聞いてきっと残念がっていると思います。
同時に我々関係者は高校卒業からチャレンジしてきたマコのような若者がもっとトップレベルに挑み続ける
環境を提供出来ていたのか。
クラブ運営の脆弱さでプレイヤーのモチベーションを下げていないか。
引退まで言い訳できないくらい思い切りバスケをやらせてあげれたのか。
「問題としてとらえないといけない」
今も現役を続ける43才のレジェンド・石橋晴行選手(現バンビシャス奈良)にマコとのワークアウトをお願いしたことがありました。
マコがリスペクトする城宝匡史選手(現新潟アルビレックス)にマコとのワークアウトをお願いしたこともありました。
バシさんとのワークアウトはキツくてしんどそうでしたが
振り返ってもマコのキャリアの中で、かなりいい時期でもありました。
ジョーとのワークアウトは実際には実現しなかったけれど、話が出ただけで目を輝かせ「ホントにいいんすか!」
と言っていたのが思い出されます。
マコはこれからもバスケットボールに携わっていきたいと聞いています。
沿岸の期待をぜんぶ背負ってくるような選手の育成や、勝負所でスコアだけでなく、フロアや観客席に飛び込むハートを持った選手をまた連れてきてくれると信じています。
自分自身もマコのような大きな可能性を持ったプレイヤーがこれから出てきた時、もっと可能性を広げられるような環境作りを心に刻み、震災を乗り越える勇気をいろんなゲームでブースター、スポンサー、沿岸のみんな、
チームスタッフ、会社のみんなに届けてくれたマコのキャリアに感謝し、
「#1 澤口 誠」のオフコートストリーを閉じたいと思います。
きっと自分以外のたくさんの各地のマコのブースターもこの引退を聞いて悔しがっていると思います・・・
Respect 澤口 誠
0コメント